実録 頭のわるい私が自己破産するまで

頭のわるい私が勘違いの努力をしながら最終的に自己破産する記録です。

それ モラルの問題です!

新しい勤め先となった田町の会社は大手コンピューター機器会社CA●ONの子会社だった。
子会社といってもさすが大手、通勤時の田町駅を歩く人たちは殆どがCA●ONの社員だった。

その中の営業部 営業第4課の派遣事務員としての勤務がスタートした。
内容的には正社員事務員の補佐業務。
何人ものお姉さん事務員の中で指示されたことをする簡単な業務。
お茶を入れたり、郵便物を受け取りに行ったり、簡単な文書をワープロで作ったり。

全然今までと違うのは営業部という言わば会社の中心部署の何十人もの人たちがかかわる中での仕事ということだった。
今でこそ死語となりつつあるが、年功序列・終身雇用・男女格差という昭和の会社そのもの。
事務の女性社員は同じフロアだけで20人くらいいたと思う。
時はバブルの終わりころ。制服であったが女性社員はメイクやネイルにバッチリ時間をかけている印象だった。


初日にお姉さまに言われたのは「営業部の郵便受けに届く新聞を毎朝取ってきて営業部長の机に置く」というミッション。
「これ、あなたの担当にするからお願いね!」と言われた。
何だ簡単。。と思ったものの、これが忘れる忘れる。
こんな簡単な仕事も忘れてしまって完璧にできない若干20歳の小娘であった。
さすがに3回目には「忘れないでね!」と念を押され、4回目には知らずに担当を外されていた。

なんで忘れるのか。。。ちょっとした理由があった。
朝と昼、15時のお茶の当番という女子従業員の仕事があり、正社員は順番で担当するのだが
派遣の私は補佐として毎日手伝うことになっていた。
その儀式はフロア中の優に40名は超える男性社員にマイカップでのお茶の提供だ。
(本当に昭和真っただ中の昭和の会社だ)
統一カップならまだしも、各々のマイカップだから面倒くさい。
おまけにデキル女子社員は「この人は濃いめ、この人は量を少なめ、ぬるめ、この人はお茶の時はこの湯飲みだけど
コーヒーの時はこのカップね」なんて職人技級な指示を出し、私に覚えろと言う(笑)

そんな毎朝の儀式で頭がいっぱいで、エレベーターでフロアに上がる前に郵便受けに寄って行くなんて
すっかり忘れてしまうのだった。

そしてそれは昼休みのランチでも勃発する。
外ランチしない男性社員のお茶(とくに部長とか課長の役付きの人)を入れる。
しかしその前に朝いれたお茶の戻りカップが給湯室の水道に積み上げられるので、それを洗ってからの話だ。

朝と違って全員ではないので数は少ないが、どのカップなのかを識別しないとならない。

15時のお茶タイムも然りで、昼の戻りカップを洗ってから15時にフロアに居る人のお茶だけを入れる。
そして定時で上がる前に15時の戻りカップを洗ってから退社するのだ。

なんだこれは!女子社員はお茶入れマシンか?
入って3日目くらいにはこのお茶当番が苦痛で仕方なくなっていた。
当然何年も務めているお局様だって感じている事だろう。でもその当時の女性従業員の在り方というのはそういうものだった。
(それから数年して男女雇用機会均等法が施行されて、この状況は少しずつ緩和されていくんだけど)

せめて自分の飲み終わったカップくらい自分で洗ってくれれば違うのに・・・
お姉さまたちにちょっと言ってみると皆激しく同意してくれて盛り上がった。
「そうなのよねー自分で洗ってくれたら良いのにねー」「ま、なかなか言えないけどねー」
なんていう言葉を鵜呑みにした私はちょっとした事をやってみることにした。

次の日
私の「ちょっとした事」が功を奏し、戻りカップは全て片付けられていた。
と同時に
「このメモを書いたの誰だ?」「はい私です」と課長からお呼びがかかった。
課長から別室に呼び出された私はこっぴどく叱られた。
「自分の立場を考えて、今後こういうことはやめてくれ」だった。

「ちょっとした事」とは、メモ用紙に赤いボールペンで(挑発的!)
「自分で使ったものは自分で洗ってしまってください。
使いっぱなしはモラルの問題だと思います。
これは女子社員の仕事ではありません。」
と書いてキッチンに掲示したのだった。

もちろん派遣元会社にも報告が上がったが怒られるよりもなだめられた。
(さすが金ヅルとしか思われていないので機嫌を損ねないように)
思ったより大きな問題になり、不本意ながら私も謝るしかなかった。
やりがいのある仕事に就きたいと考えて派遣先を変えてもらった経緯のある私は
この「お茶事件」により学歴の重要性をさらに感じるようになっていった。なぜって?学歴があって専門知識があれば逆にお茶を入れてもらう立場になれると思ったから。
高卒ではいつまで経っても人にお茶を入れてあげないといけないのだ・・・などと考えて(笑)

本当にとんちんかんで大きな勘違いをしている20歳の私であった。
しかしそんな私を「おもしろい」と思っている人が若干1名いた。

フロアで一番えらい営業部長である。
一番えらい人に気に入られたお陰で私はますます色々な事件を繰り広げるのだった。

「もっとやりがいのある仕事をしたいと」豪語したあの日

クレジットカードを手に入れた私は「打ち出の小づち」を持ったような気分だった。
分割払いすれば何でも買える。
もし生活費が足りなくても、ちょっとキャッシングすれば大丈夫だ。
そんな風に考えながら毎月買い物を楽しんでいた。

おしゃれなスーツにはハイヒールが合う。
最初は3センチくらいのヒールだったのが金遣いと共に5センチ8センチと高くなっていった。

だんだんとブランド物で身を固めるようになった私は、なぜか自分に自信がついてきて
さして何の勉強もしていないのに、もっとやりがいのある仕事に就きたいと考えるようになっていた。
なぜだろうか。。。おそらく素敵な服で見た目がキャリアウーマンっぽくなったから
本当のキャリアウーマンになりたくなったのだろうか(何のキャリアもないのだが(笑))

 


そんな浅い考えから「受付」という仕事に物足りなさを感じ始めていた。
仕事のほうは派遣会社でパソコン教室に通わせてくれていたので少しずつパソコンも習得していった。
当時OSはMS-DOS。まだウィンドウズは産まれていなかった。
そのOS上でLotus1-2-3や一太郎を使っていたような記憶がある。
まだまだそんなレベルである。物足りなさを感じるような力量も能力もないというのに・・・

大いに勘違いした私は当時担当してくれていた営業部長に、もっとやりがいのある仕事ができる会社へ
派遣して欲しいと頼んだ。可笑しかっただろうな。なんのキャリアもない(勉強すらも始めていない)若干20歳ほどの
女の子がそんなことを言うなどとは。
しかし派遣会社にとって派遣スタッフはお金と同じ。機嫌を損ねてどっかの正社員にでもなられたら
商売あがったりだ。幸いパソコンを習得したところだし簡単なパソコン作業のある事務はどうだろうか。

そんな取り計らいで蒲田の「受付」の会社から田町の「事務」の会社へ移ることになったのだった。
いろいろな勘違いをしていた私は田町の会社で大問題を起こすことになる。

出会ってしまったマ●イの赤いカード

さて就職と仕事をなめ切っていた私は、新聞の広告で見つけた求人に応募した。
割と給与が高めだったので一抹の不安はあったが、私にはどうにかなるだろうという根拠のない自信があった。

それは蒲田付近に事務所を構える会社だった。
面接場所の渋谷に向かうと、薄暗い古いビルの一室だったがドアに「ベ●コ」と書いてあった。
広告の求人場所はここの支店か?子会社か?などと想像しながら...

面接を受けてわかったのはそこが派遣会社ということだった。
求人に「派遣」と書くと応募者が減るので書かずに面接に来た人にだけ伝えるという手法を取ったそうだ。
(今では絶対にできない手法(笑))
求人広告を見た時の違和感はコレだったのかと思ったが特段詐欺を働くような感じでもなく
派遣先は広告にあった蒲田付近のステンレス配管を主業とした安定した会社で受付事務という内容だった。

正社員と派遣社員の長期で浮き出る待遇の差など、まったく考えていなかった私はそこで働くことにした。
日給月給であっても社保加入が無くても(確かその当時社会保険でもなかったと思う)お金さえ貰えれば良かったのだ。

こうしてアパートのある大田区鵜木からJR大森駅付近への通勤が始まった。
受付はもう1名採用になっていて彼女は私よりちょっと年上の可愛らしい顔をした人だった。(名前まで思い出せる)
よくある受付テーブルに二人で座り来客対応などをする楽で簡単な仕事だ。
当時私は「おしゃれをして通勤をし、お金を得て買い物をする」という毎日に満足していてただただ楽しかった。
そこには何の建設的な考えも無かったし、貯金をするという考えも持たず既に金欠状態だったと記憶している。
たしか人生初のクレジットカード「マルイの赤いカード」を作ったのもその当時だった。
通勤に着るおしゃれで高いブランド物のスーツを何着も買って、それを支払うために働いていた。

こうやって過去を一つずつ紐解こうと決心したら割合昔の事を思い出せて驚いている。
しかし思い出すほどに全くの無計画かつ一貫したものがない人生に我ながら呆れる・・・・

 

 

 

大学進学するって言ってたのに

現役高校生が通う美大予備校(場所は代々木だったと思う)へ通い始めた私はすぐに挫折する。
理由は予備校講師が偏屈だったのと、遠かったのと、デッサンが嫌いだったから。

私って本当にダメな奴だ。


当時、親と一緒に住んでいた飯能付近から代々木まで2時間くらいかかったと思う。
遠すぎる事もあって、祖父が残した蒲田付近のアパートの一室(空き部屋があったのだ)から通ったと記憶している。
親からも離れたかったし、通学時間は半分になる、家賃は取られないという良いことづくめでホイホイと引っ越した。

その時の引越しは高校時代の同級生の男子に手伝ってもらった。
その男友達はとても親切で私は仲良くして貰っていたが全くの友達。今でもたまに連絡やり取りがある。
その頃私には高校時代から片思いをしている人がいた。
当時私は根拠の無い自信があったようで

彼に猛烈にアタックしていたが全く脈なしだった。(今考えるとそれは正解)
彼は私からみるとすごく地味な女の子「みやちゃん」が好きだったのだ。
しかし彼女は地味でもなんでもなかった。保母さんになるために短大に進学してちゃんと保母さんになっていた。
たしか、どこかの駅でバッタリ会ったとき保育園のお勤めの帰りだと言っていて、お化粧をしたみやちゃんはとっても美しかったっけ。

お化粧のせいだけではない、目指したことを達成して努力を続けている彼女を見てとてもまぶしかったのだ。


その後、私の猛アタックにようやく相手が折れて少し付き合ったけど長続きしなかった。
大好きで憧れていた彼だったので大した努力もせずに自分を良く見せようと必死でそれに終始したからだ。

おっと話がだいぶ逸れてしまった。


そんな予備校生活でも今でいうJKと仲良くなり、そのJKを好きなDKの3人で何となくツルむ日々があり楽しくもあった。
せっかくお金を貯めて、引越しまでして通い始めた予備校は半年くらいで辞めてしまったが
あの時のJK達は無事に美大に合格したのだろうか・・・。(遠い目)

予備校を辞めた私はやっぱお金無いとねーーーと職探しを始めた。
親から何やってるんだと呆れられたのは言うまでもない。

その頃はまだ19歳。受ければ採用されるので職探しも簡単に考えていた。
ある日新聞の割と高給な求人広告が目に留まり応募することになるのだが。。。。

 

自己破産への序章

記憶によれば最初にクレジットカードなるものに出会ったのは「マルイの赤いカード」だったと思う。
19歳の自分でも(確か)作れる、高いものを分割で買える、この世は自分のもの!くらいに思えた。
今になると本当に考え無しであったと思うけれど。。。

あの頃はバブルの終わりかけ、高校を卒業した私は有名ホテルに就職した。
まだ社会人になりたてで右も左もわからなかった私はホテルのシフトに従って職場に通う日々。
入社して研修の時にやはり学歴で区別されるのだ、高卒でなんの特技もない私はフロントなんて配属されるわけがない
まぁ当たり前なんだけど、自分の努力はさておいて理想だけを要求していた私はどういう訳か自信に満ち溢れていたのだ(笑)

やっぱり学歴がないと。。高卒じゃ駄目だと考えた私は有名ホテルは1年で辞めた。
大学に行こう、そうだどうせ行くなら好きな絵を学べる大学、美大に行きたい、でも美大に行くにはそのための予備校に行かないと
何をどうしたらいいのかも全くわからない。
予備校に行くにはお金がかかる、そうだ1年と期間を決めて働いてお金をためて予備校に入ろう。
(この時点で有名ホテルを辞める必要がなかったと気づかない辺り頭が悪いが。)

そう考えた私は1年働き(昼は派遣で夕方からコージーコーナーでダブルワークもしたなぁ)予備校の申し込みの列に並んだ。
そして「もう定員に達していて入れません」と窓口で言われるのであった。本当に事前調査とか考えもしない頭の悪さ。

自分としてはもう一年棒に振るのは絶対に嫌だったので、その時まだ残席のあった現役高校生が通う美大予備校のコースを申し込んだのだ。
それは高校生が学校が終わってから通う時間設定になっていたので、午前中から予備校が始まる時間までは空いている。
そこで大学での入学金の準備にアルバイトをしたのだ。


本当にどういう思考回路なのだろう。。。
我ながら馬鹿としか言いようがない。。。

考えてみたらもうこの頃から計画的に行動を起こすということが欠けている人間だったのだ。